Boys Tree

MOON FACE BOYS, mono tone boy, Go to Bed! Records

A Decade of Regression and Regeneration

 東九条の韓国料理屋さんにてマッコリと焼肉を頂いた。甘辛ダレにじっくり漬け込んだお肉をお客さん自らロースターでお好みに焼くのがこの辺りのスタイルである。「天肉」というメニューも京都ならではだろう。チジミやナムルなどどれを頼んでも安くて美味しくて、人と囲む久しぶりの外食にしばし感激した。
 時勢柄もあるのか観光客などは見当たらず、ほとんどローカルのお客さんが中心のようであった。本日までは21時までの時短営業とのことで、ダラダラと長居をしない会食もまた悪くないものである。
 

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 その前に、京都駅南東九条の北河原市営住宅跡地で開催されたANTIBODIES Collective 新作公演『A Decade of Regression and Regeneration』初日を観覧してきた。
 
 場内配布パンフにもあるように、京都駅南口地域は戦後闇市の盛り上がりによって韓国・朝鮮人住民が一気に増えたが、高度経済成長の終焉とともに若者や行政からも見放された「被差別地域」へと追いやられ続けた歴史的背景があり、現在こそポツポツと公営住宅も建ちつつあるものの、今でも街全体にその面影を見ることができる。かく言う自分もこちらに引っ越してくるまでは、寡聞にして京都駅の真裏にこのような地域が広がっているという事実を知らなかった。いわゆる『パッチギ』で見るような断絶はここ関西においては実際に根強かったのである。
 界隈は古い建物も多いせいか街全体がどこか煤けたイメージで、倒壊した建物などがあちこちでそのままになっていたり、と不穏な雰囲気が漂っており、なかなか他では味わえない風情に不謹慎にも興奮してしまうが…当該地域には近年「文化芸術振興」の一環として文化庁移転や芸術大学招致なども決定している。地域住民にとって日常生活が向上することは喜ばしいことだろうが、アンチボも市民と向き合っているのでは決してないことが明白な市政・国政に対してそのテキスト中で警鐘を鳴らしている。
 京都駅からアクセスも良好な立地であるし、この町並みも間もなくビジター向けに見た目はツルんと洗練されたものに生まれ変わるのだろう。町家っぽいゲストハウスや、例のそれっぽいモニュメントみたいなものでもあちこちに据えてそれっぽくでっち上げるのではなかろうか。利権がらみの営利追求型の大企業や政府主導の、アートでも蒔絵により外部から人を呼び込もう、なんていう単純な青写真には、またもや地域住民は元よりアートそのものの意義や向上など決して写り込む余地はない。地域住民の理解と尊重のためにも時間をかけた話し合いが必須であろう。
 
 震災からちょうど10年が経ち、コロナ渦中の現在地からのアンチボのステイトメントとも言える今回の公演内容は、上記に正面から向き合うような徹頭徹尾インディペンデントなものであった。
 空き地スペースを会場にした場内の建て付けや美術も全て自身らによって設計、建築されたような佇まいいわゆる「洗練」とはほぼ遠い。ダンサーやミュージシャンにしてもいわゆるスターやプロ等を用意しました、みたいな選出ではなく、地域や個人同士のつながりの中で自然発生的に生まれたもののようであった。場内の飲食出店なども同様で、友人知人の顔にもあちこちで出くわして、会場全体が小さな村であるようなトライバルな印象を感じる。
 闘技場かサーカステントのような広いメイン・スペースがセンターにはあるものの、他にも場内のあちこちに併設された大小の建物や足場を舞台にして、同時多発的にあちこちで音楽や舞踏が始まり、観客は思い思いに移動しながらそれを鑑賞する形であった。野外公演ではあったが、入場時に検温、アルコール消毒などもあり、上記の観覧形式でもあったのでウイルス対策に対しても工夫して取り組まれているように感じた。

 

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 公演の流れに大まかな展開は感じるものの、個々のキャラクター、集まった時のダンスなどもバラバラで、演者たちは基本的には自発性を尊重されて思い思いに参加しているように見えた。今考えると西部講堂で観た時に比べても、意図的に細かい振り付けみたいな書き割りが排除されているようにも感じる。個々が交わったり交わらなかったりする思い思いのアクトは、はっきりいって「カオス」そのものだが、そこが風通しが良く感じて個人的にグッときた。例えば東野祥子氏やケンジルビエン氏らのダンスはダンサーたる由縁のキレそのものであったが、一方でジョン(犬)氏が珍入してみたり、スーツのエージェント?、全身タイツの女性や前髪に覆われた二人の女学生、乳母車を押した老婆がウロウロしたり…と様々な人種が終始場内を往来していた。
 音楽もまた然り、呪術的、即興的な電子ノイズがいつ果てるともなくプリミティブに鳴り響いており居心地が良かった。陽が落ちて松明に照らされたウンラヌ祥三氏によるリチュアルなギターと東野氏の静的なダンスのデュオでぐっと公演が引き締まった。
 途中正直、自分が少し苦手とする高円寺か左京区辺りの?サブカルっぽさに流れそうになった場面もあったが、そこも含め一貫して公演全体が決して一方向には向かわない、本公演ではあえて「混沌」とさせておくという演出の気概を感じた。
 
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 取ってつけたような結びはあえて避けておくが、個人的には久しぶりに伸びをして自由な気持ちを取り戻したような後味があり、渦中で迷ったものの現場に足を運んでみて得るものがあったのだった。 
 

 
果てしない混沌の うごめきのなかで 
命の限りに輝くために 生まれて来たことを忘れないで欲しい 
あなたが踊れば 暗闇も踊るから 
ほら もう怖がらないで